映画「立候補」(藤岡利充、2013)

決められない政治を嘆き二大政党制導入の失敗を嘆き失望とシニシズムに逃げこむ前に眼玉をかっぴらいて観るべきドキュメンタリー。「泡沫候補」と言われ、なぜ立候補しているのかよく分からない人たちの考えをを知るためではない。それもいいけどもっと本質的に、政治を消費せず、政治に参加するために、この映画を観るべきだ。

むろん泡沫候補とて立候補の動機は一様ではなく、ただの無駄遣いにしか見えない人物もいる。しかし300万円の供託金を払えば誰でも立候補できるという仕組みが担保しているものを考えさせずにはいない。バックグラウンドに挿入される外山恒一の決め台詞がずっしりと腹の底に残る。

何十本かの日の丸を槍のように闇夜に向かって突き立てている多数派の無慈悲な圧力の空恐ろしさを生々しく写しとったイメージはちょっとやそっとでは忘れられない。


★★★★★

松浦寿輝「半島」(2004)

最初の二行を読んで、何これ、保坂和志?と思った。ぐねぐねといつまでも終わらない文章で、ただ保坂よりも妙に思弁的でとっつきにくい。軽い口調で切りもみ下降して意外な着地点に至る保坂節の小気味良さはない。

とは言え、最初の数ページを過ぎると一文の長さはだいぶ落ち着いて、独白と三人称の文章を極めて自然に混ぜ合わせるところに作者の地力を見ることになる。混ざりあうのは語り手の視点だけではない。主人公の体験は現実と夢想のあいだをいつの間にか往来し、過去の回想が現在の描写と主人公の思考の合間に見え隠れする。うまい。しっかり文学してる感のある小説。

ただ、主人公の観念的一人相撲に語りの重心がありすぎて、他の人々の行動の動機はあまり説明されない。世間のめんどくささから逃げて半島に辿り着いた主人公は、人との関わりかたを大きく変えることなく、最後まで、自分以外の誰とも正面から対峙することなく酒を飲んで酩酊している。

★★★☆☆

辻原登「村の名前」(1990)

日本の商社の男が畳の材料の藺草を求めて中国の湖南省長沙から山奥へ入って行く。貿易公団の男に連れられて行った桃花源村では共産党の論理が昔からの共同体の上に乗っかり二層構造を成している。北京語の世界と村の言葉の世界。

じりじりした暑さ、何かがおかしいと訝る主人公、一瞬現れては消える古い村。辻原の描写は無駄がなく鋭い。一見現実離れした空間に世俗的なプロットが織り込まれている、そのバランスがいい。終わらせ方がやや淡白な感じもするがそこを追及するともっと長い全然別の小説になってしまっただろう。

★★★★☆

真山仁『ベイジン』(2008)

山崎豊子の小説に似すぎていて、彼女の『大地の子』を超えているかと問われると疑わしいが、21世紀初頭の中国を描いた点で独自の価値はある。ただ山崎豊子を超えるためには、彼女の描いた時代の中国にはなかった超格差社会コントラストをもっと明示すべきではなかったか。主人公の親友の廃品回収業者という役回りは面白いけど、彼らの仕事の泥臭い部分をもっと書き込まないと社会の矛盾をものともせず立ち回る人々のしたたかさが中途半端になる。

これは中国を描いた小説なのか、原発を描いた小説なのか。一足飛びに全てで世界一になろうとする中国の渇望を描くために世界最大の原発建設という装置を持ってきたのだろう。しかし日本の視点を「技術顧問」という形で入れたために、両者間の衝突を解決する方法として、究極的には中国人も日本人もなく皆が希望を追い求め、奪いとるのだ、というストーリーに落ち着かざるを得なかった。


「時代が変わりつつあるのかもしれません。全てとは言いがたいですが、共に汗を流している日本人の多くは、我々と同じ目線で物事を考えているように思います」(下・76ページ)

「私には、日本人と一緒に仕事をしているという意識が殆どなかった。同じ釜の飯を食えば、仲間になる。それを実感した気がする」(下・139ページ)

「紅陽核電から始まるエネルギー新時代への希望であり、中日人民が心を一つにしたいと願う希望」(下・140ページ)

この小説を日本人が書いている以上たぶん他に方法はないだろう。しかしこれだけでは、日本出身の中国残留孤児である陸一心が中国を代表して中日合弁プロジェクトにあたる、という『大地の子』の複雑な構造が生み出すパワーを超えられない。また上のように対立軸が途中で解消されてしまう結果、最後の四分の一は中国を描くという看板が後退し、原発を描いた小説という側面が強くなる。

個人的には、映画監督の楊麗清の葛藤をもっと読みたかった。国際社会が押し付けてくる中国像に反発しながらも、彼らの土俵で戦って認められることを強く欲してしまう彼女の抱えるジレンマこそ、いま中国を題材に外国人が、しかもヨーロッパやアメリカのソフトパワーに同様のコンプレックスを抱える日本人が、小説を書くことの意義ではないか。


「今回の記録映画は、単にオリンピックを記録するのではない。国際社会に仲間入りしようと必死にもがきあがく中国の姿を、過不足なく後世に残す責任を負っていると。そのためには、妙な技巧や主観的な演出を好む他の監督たちではダメだと。目の前で起きている現実から目を背けず、むしろその現実の中から真実を浮かび上がらせようとする楊麗清監督以外に、この大役を果たせる人はいない、とおっしゃっていました」(上・348ページ)

「何もこの国に媚びてくれとは言いません。しかし、あなたには見えるはずだ。世界中から嫌われながらも、中国人民がひたむきに求めているものが。」(下・62ページ)

「ねえ、監督。記録映画というのは、自分の主張を真っ直ぐに訴えるためだけに撮るんじゃないですよ。今起きている事態の矛盾を余すことなく浮き彫りにできれば、見る人には大きなインパクトを与えられる。私は、そう思っています。五輪万歳、歓迎と騒げば騒ぐほど、この国が抱える問題の深刻さも浮かび上がってくるんです」(下・109ページ)


プロットが巨大な小説は破綻なく書ききればとりあえず巨大なスケールの小説のように見える。この作品も例外ではないが、それでも細部の文章の詰めの甘さは否めない。村上龍『半島を出よ』のような、各人物の過去を徹底的に掘り起こして造形した重みはない。中国を描ききったか、と言われると首肯しかねるし、原発を描ききったか、と言われても心許ない。特に2013年の日本に生きる我々は、原発メルトダウンを止めるために海水を注入する、という方法がどんなジレンマを現場で引き起こすかについて痛いほどよく知っている。原発事故が、火が消えた時点で終わらないこと、長い長い放射能との戦いの始まりでしかないことも、骨身に染みてわかっている。

★★★☆☆

生産性を上げる訓練をしたい

今月の学会が終わったので、3ヶ月くらい思い切って研究から離れて、生産性を上げる訓練をしたい。書きながら悩んでいる時間をエリミネートしたいし(”NEVER TWEAK!”)、情報管理のルールを確立したいし、10000語前後をまとめて平易に書く能力をつけたい。今後研究者としてやっていける可能性を最大化するのはここで理論上読める文書の数じゃないはず。

グローバルな英語について英語で書いてみる

Yokichi Koga, a venture capitalist based in Palo Alto, gives a jab to Japanese people who value fluency in English in global business just way too much. The ability to make yourself understood, by tailoring the message to your counterpart, is far more important, he says. His argument stems from the below distinction he makes between language proficiency and communication skill.

コミュニケーション力とは、相手に自分の気持ちが伝わっていることを目的とする「相手の理解中心」のスキルである。一方、完璧な英語を話せるというのは自分の思考を正しいフォーマットでアウトプットできて格好いいという「自分の発言中心」のスキルである。


That is an interesting point, and it may well be true in business. For me, as a non-English-native, aspiring (and sometimes faltering) academic in the humanities in an UK institution, this does not apply. Unless you write or speak reasonably well in English you cannot participate in the debate, for you cannot make the point you want to make without the fluency that allows you to, if you so choose, write or speak in a convoluted, embellished way (of course you shouldn't). By the time you enter a doctorate programme, your argument is so complex and subtle that it requires a pathetically high level of linguistic sophistication. In other words it is not an issue of relative importance. In my setting, as far as I am concerned, well-composed prose is a prerequisite to deliver the message. In the humanities, after all, you have nothing but words. Believe it or not, we still write books.

Call it snobbish, call it linguistic imperialism. If you hate it you can choose not to take part. You can stay in the world of Japanese or whatever vernacular of your heritage. I accept the rule and enter the empire because I cannot live with global oblivion. It is easy to say that this is all wrong. We all know it is horrendously wrong. The point, still, is that this is a game so much is at stake that I cannot let go without making a bid, however bad the odds may be.

I am writing this post mainly because I was inspired by this critical response from a blogger quipped to Mr. Koga's post. His critique is twofold: that you cannot separate English proficiency from communication skill; and that there is so much to cherish in the language itself.

ぼくはアメリカに住んで14年になるが、英語の発音も文法も完璧ではない。ただ村上春樹のふりをしてYelpのレビューも書けるし、鬱に苦しむアメリカ人の友達をチャット越しに笑わせることもできるし、日系アメリカ人相手にツイッターで一本とることもできる。[1]そういう意味では、自分は相当英語ができると自負しているし、それは単なる発音や文法や表現といった「英語力」に因るものでも、空漠とした「コミュニケーション力」によるものでもない。多分、「言葉は所詮ツールでしかない」と割り切れず、言葉に対して愚かしいほど強い想いを持ってきたことの結果だろう。

...(中略)...

これだけは言っておきたいのは、言葉は所詮ツールでしかないと思う人間が、英語を高いレベルで習熟することはなかなか難しいだろうということだ。


I cannot agree more. As one of the (puzzlingly) small number of people who could not reconcile with the fact that you speak poorly in the world's most widely used language by calling it a mere tool, I believe that the affection for this language, as ultimately futile as it may be, has given me the momentum to climb to the realm I would have reached no other way.

8500語で止まっている

8500語くらいでぴたりと筆が止まっている。あちこち思考が拡散して手に付かない。休みが足りないんじゃないが、何が悪いのかわからない。カリキュラムがなさすぎて放り出されている感じなのは今に始まったことではなくて、それをadvantageだと思って好きなようにやるしかないのだが。

研究を進める部屋は大事だ。文献がそろっていて、プリンタがあって、パソコンと快適な速度のブロードバンドがあって、静かで落ち着ける内装で、片付いていて。予定表なんかがあって今日何を終えれば順調だと考えていいのかが分かるようになっていればなおいい。

とりあえず、まず部屋の片付けをしよう。要らないものをゴミ袋に2袋分くらい捨てて、プリント類を少なくともボックスに分類して。カーテンとかも変えられたらいいんだけどな。ほんとは。