真山仁『ベイジン』(2008)

山崎豊子の小説に似すぎていて、彼女の『大地の子』を超えているかと問われると疑わしいが、21世紀初頭の中国を描いた点で独自の価値はある。ただ山崎豊子を超えるためには、彼女の描いた時代の中国にはなかった超格差社会コントラストをもっと明示すべきではなかったか。主人公の親友の廃品回収業者という役回りは面白いけど、彼らの仕事の泥臭い部分をもっと書き込まないと社会の矛盾をものともせず立ち回る人々のしたたかさが中途半端になる。

これは中国を描いた小説なのか、原発を描いた小説なのか。一足飛びに全てで世界一になろうとする中国の渇望を描くために世界最大の原発建設という装置を持ってきたのだろう。しかし日本の視点を「技術顧問」という形で入れたために、両者間の衝突を解決する方法として、究極的には中国人も日本人もなく皆が希望を追い求め、奪いとるのだ、というストーリーに落ち着かざるを得なかった。


「時代が変わりつつあるのかもしれません。全てとは言いがたいですが、共に汗を流している日本人の多くは、我々と同じ目線で物事を考えているように思います」(下・76ページ)

「私には、日本人と一緒に仕事をしているという意識が殆どなかった。同じ釜の飯を食えば、仲間になる。それを実感した気がする」(下・139ページ)

「紅陽核電から始まるエネルギー新時代への希望であり、中日人民が心を一つにしたいと願う希望」(下・140ページ)

この小説を日本人が書いている以上たぶん他に方法はないだろう。しかしこれだけでは、日本出身の中国残留孤児である陸一心が中国を代表して中日合弁プロジェクトにあたる、という『大地の子』の複雑な構造が生み出すパワーを超えられない。また上のように対立軸が途中で解消されてしまう結果、最後の四分の一は中国を描くという看板が後退し、原発を描いた小説という側面が強くなる。

個人的には、映画監督の楊麗清の葛藤をもっと読みたかった。国際社会が押し付けてくる中国像に反発しながらも、彼らの土俵で戦って認められることを強く欲してしまう彼女の抱えるジレンマこそ、いま中国を題材に外国人が、しかもヨーロッパやアメリカのソフトパワーに同様のコンプレックスを抱える日本人が、小説を書くことの意義ではないか。


「今回の記録映画は、単にオリンピックを記録するのではない。国際社会に仲間入りしようと必死にもがきあがく中国の姿を、過不足なく後世に残す責任を負っていると。そのためには、妙な技巧や主観的な演出を好む他の監督たちではダメだと。目の前で起きている現実から目を背けず、むしろその現実の中から真実を浮かび上がらせようとする楊麗清監督以外に、この大役を果たせる人はいない、とおっしゃっていました」(上・348ページ)

「何もこの国に媚びてくれとは言いません。しかし、あなたには見えるはずだ。世界中から嫌われながらも、中国人民がひたむきに求めているものが。」(下・62ページ)

「ねえ、監督。記録映画というのは、自分の主張を真っ直ぐに訴えるためだけに撮るんじゃないですよ。今起きている事態の矛盾を余すことなく浮き彫りにできれば、見る人には大きなインパクトを与えられる。私は、そう思っています。五輪万歳、歓迎と騒げば騒ぐほど、この国が抱える問題の深刻さも浮かび上がってくるんです」(下・109ページ)


プロットが巨大な小説は破綻なく書ききればとりあえず巨大なスケールの小説のように見える。この作品も例外ではないが、それでも細部の文章の詰めの甘さは否めない。村上龍『半島を出よ』のような、各人物の過去を徹底的に掘り起こして造形した重みはない。中国を描ききったか、と言われると首肯しかねるし、原発を描ききったか、と言われても心許ない。特に2013年の日本に生きる我々は、原発メルトダウンを止めるために海水を注入する、という方法がどんなジレンマを現場で引き起こすかについて痛いほどよく知っている。原発事故が、火が消えた時点で終わらないこと、長い長い放射能との戦いの始まりでしかないことも、骨身に染みてわかっている。

★★★☆☆