藻谷浩介・NHK広島取材班チーム『里山資本主義』(2013)



資源高に伴う貿易赤字への転落、高齢化・生産年齢人口の現象に伴うデフレ、実体経済の成長が頭打ち、といった日本の置かれた諸状況に対処する方法として、藻谷とNHK広島取材班のチームが提唱するのは、言わば資本主義のゲームを半分降りるアプローチである。まず都市を離れて田舎に移り住むことによって住居費、食費などの支出を減らす。もちろん収入は一気に減ってしまうが、それを補って余りあるほどの、貨幣に換算できない価値(人とのつながり、ただで得られる食材、仕事のやりがい、少ない環境負荷など)を得られる、と主張する。バイオマスで成功を収めつつある岡山県の山村やIターン、Uターンの若者の移住で変わりつつある山口県周防大島などの事例を挙げつつ、お金の価値に全てを置き換える資本主義に振り回されるのは終わりにしよう、と訴える。


こういう生き方で救われる人がおおぜいいることは間違いない。就職市場の非人間性や一部企業の雇用環境の劣悪さを仄聞するにつけ、大都市でホワイトカラーの職につくだけが選択肢じゃないという声には諸手を挙げて賛同したい。しかし、例えば周防大島で作った手作りでエッジの効いた高付加価値の(したがって高価格の)ジャムを買ってくれる人が存在し続けるためには、資本主義の側でも日本がある程度勝ち続けないといけないんじゃないのか。それだけのお金を、何も大きな手を打たずせずとも日本の都市部は稼ぎ続けられるのか。


もちろん筆者たちは原始時代に戻れと言っているわけではない。スマートシティを導入しようとするプロジェクトも取材し、「なんだ、目指すところは里山資本主義と一緒じゃないか」という(きわめて楽観的な)見解に達する。スマートシティと里山資本主義が今後の日本の車の両輪となるべきだ、と。700円のジャムはスマートシティ側、進化した資本主義の側の皆さんが買ってくれるということだろう。確かに里山資本主義の共同体が一定程度大きくなるとある側面ではスマートシティのような外観を呈するのかもしれない(村中の暖房機能を一括管理しているオーストリアのギュッシングの例がそれに近い)。それでも、ITを活用してエネルギー消費の無駄を街全体でなくしていきましょう、という話と、裏山で拾った枝をエコストーブで燃やして美味しいご飯を炊こうぜ、という話を並べて、「コミュニティの復活」というキーワードの一致だけを根拠に「同じ方向を向いている」と胸を張るのは正直無理があるのではないか。スマートシティはコミュニティの復活を第一の目的に行っているわけではない。(たぶん)念頭にあるのは、世界中とくに新興国で今後数十年のうちに爆発的に増える都市人口をいかにマネージするのか、より重要にはそこに生じるビジネスチャンスにどう食いこむか、のはずだ。日本でスマートシティを考えているコンサルなり建設会社なりが日本向けサービスとしてコミュニティの強化を促す機能を考えることはあるだろうが、スマートシティそのものはあくまで、資本主義の次の大きなゲームの一つであるように思える。そこにこれまでの資本主義にはなかった、そして里山資本主義が重要視する、人のつながりを根源的価値として見出すのはいささか曲解なんじゃないか。


以上のような留保もありつつ、本書の描く未来が日本の田舎で実現するのは歓迎すべきだと思う。車輪のもう片方、従来型資本主義の側の議論が弱いのは、もちろんそれが本書の主眼でないからで、まあそっちはそっちで打ち手を考えるべきだろう。それを可能にするためにも、戦略特区なり道州制なり、全国横並びを廃する行政機構のメカニズムを早く整備すべきだ、といういつも一人で考えたり人と議論してたりするときに辿り着く論点に今回も来てしまった。