内向き憂国論の終わりかた

■外へ出て行けと旗を振るのは誰か

ノーベル化学賞をとった根岸先生8月末に加藤嘉一現象を取り上げてたテレ東のWBS朝日新聞はじめ、ワカモノが内向きになっていると憂いてみせるのが流行っているけど、そして僕自身もその論調にいっけん加担するような本を書いたけど、こういう態度はスノビズム紙一重だ。こういうことを言う人は必ず自分が外に出ているか、外から帰ってきたか、あるいは自分はもう歳だから関係ないかだから。自分ができないのに「皆もっと海外へ出ていくべきだ」とか言っても説得力がないし自己否定になってしまう。そして逆に、いまは少数派である「外へ出て行く」という道を一旦選んだ人たち(僕を含む)は、こっちのほうがいいよ、おいでませ、と旗を振って、自分の進んだ道を売り込みたい。そうしないと、間違ったんじゃないかと不安だから。少なくとも僕は毎日のように不安に思っている。あるいは、従来のヒエラルキーで不利を蒙るから。



■でも、皆が出てくことはありえない

でも、皆が出てくことはありえないのは言語環境を見れば明らかだ。これほどひとつの言語だけで全てが済んでしまう状態で、出ていけるだけの語学力は、一旦とにかく外に出て実地でもがくことでしか身につかない。移民を一気に受け入れたり英語を第二公用語にしたりする可能性も低いし。ニセコと六本木は違うかもしれないけど、日本の殆どの場所では、普通に暮らしていたらブロークン・イングリッシュすら身につかない。文科省がいくら英語を指導要領に足しても、学校から一歩出れば日本語オンリーで生きていけるから切迫感に欠ける(それで大丈夫だったのは素晴らしいことなのかもしれないが)。学校教育でコミュニケーション能力を高めよう、という発想にそもそも無理がある。国外移住でなく自分で勉強して16カ国語をマスターしたハンガリー人のロンブ・カトーはこう言う。「外国語学習に費やされた時間というものは、それが週単位、またもっと良いのは一日単位の一定の密度に達しない限り、むだであったということになります。」あれだけ勉強した英文法も、2年もすれば見事に忘れている。大学の間は維持できたとしても、毎日のように使わない限り、いずれ衰える。



■内向き憂国論の終わりかた

じゃあこれからどうなるのか?内向き憂国論は言語障壁の前に敗れ去るのか?

現実には、こういう論調は、皆が外へ出ていくことや外から新しい人がどんどん入ってくることじゃなくて、「内と外」「日本と世界」という単純な二分法が問い直されることによって終わるんじゃないかと思う。

・あれ、内っていうけど、日本てそんなに一様だったっけ。
・例えば沖縄って本土と同じ扱いを受けてこなかった。
・東京は日本のごく一側面でしかない。
・俺は自分の村から外へ出ていくつもりで大阪来てみたんですけど、ここもまだ内だったの?グローバルって何?
・西国と東国ってけっこう違った世界だったよね。蝦夷も南九州も、独特だったよね。(網野善彦

という感じの疑問が出されてくると思う。私たちは一様なんですよ、という神話はNHKその他を通じて根強く発信されているけど、いつか変わると思う。半井さんの天気予報がシンガポールあたりから始まってウラジオストクで終わる、みたいな時代が来たら、あるいは道州制になって各州ごとのメディアがNHKを凌駕したら、きっととてつもなく面白い。



■最初に押されるべきスイッチ

一様と言われる社会で、一様に皆が目指す大学があって、皆が目指す企業や職業があって、スタート地点からそこまでの距離は人によって結構差があるのに、高校、大学あたり以降は追いつくのが難しくなってしまう。それは不公平だ。だから本を作りながら、海外の大学がすべからく良いわけじゃないけれど、それが選択肢に入ることで、優秀なやつは皆東大へ行く、みたいな空気が変わればいいとは思った。まずここが変われば、その後の人生で使えるスキルに変換しにくい知識を詰め込む受験勉強も、学歴で切ってしまう企業の採用もある程度は変わらざるをえない。AO入試で入ってきた学生は大学の講義についていけない割合が高くて大学側は苦労しているらしいけど、大学側の学問だって時代の要請に応じて変わっていくのは別に不思議ではない。通年採用が増えてくれるかもしれない。新卒の定義拡充とか、総合商社が4年夏から採用活動とか、少しずつ変わっているようでもあるし(しかしこれを実行できた商社はすごい。優秀な学生がみんな春に内定をもらって就活を終えてしまったらどうするんだ!という反対は強くあっただろうに。まあ6月くらいに交換留学から帰ってきて翌年3月に卒業する学生をターゲットにできる、と考えれば悪い話じゃないが)。いま社会の多様性を押しとどめている最大の要因は大学入試だと思う。ここが変われば効果は波及していくと思う。



■迷ってもOKな社会に住みたい

日本という社会が実は一枚岩じゃないとみんなが再発見し、内向き憂国論や日本か世界かといった二分法がなくなり、皆に多様な選択肢と迷う時間があって試行錯誤に寛容な雰囲気ができたら、我々はもっと息をしやすくなる。蛙の子は蛙的に皆に僅かな選択肢しかなくて遠くの他人の様子があまり見えなければ、不満を持たないでいることは難しくない。でもこうも簡単に情報が手に入ってしまうと、自分が他人と比べてどうであるかが痛いほど見えてしまう。そうなったときに選択肢を持っていない人は持っている人に反発する。こんなのフェアじゃねえよ、と。だからいまの時代で最善の策は、皆が好きなように迷える状況を整えること以外にない。少なくとも僕はそういう社会に住みたい。ほんとに振りたい旗はこっちなんですよ。

「日本」とは何か 日本の歴史00 (講談社学術文庫)

「日本」とは何か 日本の歴史00 (講談社学術文庫)