伊藤穣一さんの講演を聴いて日本語の終わりを感じる

伊藤穣一という人のトークを聞きにいった。
伊藤さんは日本人だけどアメリカ育ちで大学もこっちで出ていて英語のほうが第一言語な感じ。あるいはバイリンガル。日本語はほとんど話されなかったので判断できず。

オープンソースがどのようにビジネスを、世界を変えているかという話で、
すごく面白かったんだけど一方で悲しくなった。
世界規模でインパクトを与えることはすべて英語でおこっている、という現実を見せられたから。
英語圏英語圏の関係はどうなるんですか、という趣旨の質問をしたら、
日本はほんとうにガラパゴス島のようで、
ポケベルとか携帯とかニコニコ動画とか初音ミクにみられるように
コミュニケーションの形態としてとても特殊な発達をしていて

それゆえに貢献できることも色々あるんだけど、
最終的には英語ができるようにならないと難しいね、
という感じの答えがかえってきた。

こっちに住み始めて4ヶ月近く。
英語ができるようになってきて、英語話者の人との会話の中身が高度化していくと、
どんどん彼らにとっての「普通の会話」に近づいてきて、そうするとかえって会話の文化の違いが
円滑なコミュニケーションの妨げになる割合が(俺の英語力の寄与度が減るのと同時に)

上がっている気がする。
(つまり全体的なぎこちなさは俺にとってはそれほど変わっていない!)

会話の文化というのはべつにサンクスギビングがどうとかいう話ではなくて、雛形のようなもの。
リズムともいえるかも。だいたい俺らが普段交わす会話のパターンなんてたかが知れてて、
個別の事情によって内容がちょっと入れ替わるだけであとは同じ型の会話が繰り返されるのが日常だ、
と俺は常々思っている。
例えば安全保障論の自習グループ(6人いて俺以外全員アメリカ人)で思ったのは、

みんなやたらに

「自分はこれからこの部分を復習する」
「私はまだここが足りないっぽい」

と口々に言うこと。
一人がそう発言したときそれに対してどういう返答が普通になされるかというと、やっぱり

「俺はここに関しては自信あるけど、こういう問題だとヤバい気がする」

みたいに、俺には全く噛み合ってないように聞こえるもの。
こういう「お互い言いっ放し」の会話はイギリスにいたときはあまり感じなかったけど

こっちではしょっちゅう聞かれる。

これを日本語でそのまま言うと、「いや聞いてねえし」と茶化されるか、
「それを私に言ってどんな返事を期待してるの」とか思われそうだ。
(ていうか実際に言われたことがあるな。)
要するに、日本語では聞き手が全く関連しないような発言をしても会話にならない
という傾向があると思う。

英語が第一言語でない人との会話の場合は、もう完全なコミュニケーションというものが

成り立たないことが最初からわかっていて、ある程度ぎこちないのが当然という了解が双方にあるから
(少なくとも俺はそう思っているから)そんなにストレスにならないのだけど。

あーあ。まじ悲しいなあ。

あまりに悲しいので試験勉強を中断して投稿。メールで書いたら改行が変だ。。
ぱどれす、もう少し返事待って下さい。すんません。