ラスベガスの帰りに飛行機の中で書いた文章

十五分おきにライトアップされながら地上十数メートルに吹き上がり音楽に合わせて踊る噴水、ホテルの客室を取り巻くように走るジェットコースター、実物の数分の一の大きさのピラミッドや自由の女神像、金色の髪を波打たせた半裸の女たちが刷られた名刺大のビラが散らばる交差点、コロナの瓶を片手に賑やかに話しながら路上にたむろする男たち、巨大な電光掲示板やガラス張りのホテルを背に写真に収まる韓国人夫婦、ショーを観終えた客を乗せて連なるタクシー、四肢を曝した小さなドレスを纏ってホテル間を移動するトラムに乗り込むヒスパニックの女たち。

ラスベガスは不思議な街だ。中心部のStripと呼ばれる一本の通りだけがホテルとレストランと土産物屋で栄えていて、そこを外れると殆ど何もない。何もないと言って砂漠が広がっているわけではないのだけれど、そのだだっ広い空間を何が埋めていたのか一旦目を離してしまうと思い出せない。たぶん片道五車線くらいの道路と、のっぺりして用途のはっきりしない黄土色の建物がぽつりぽつりと並んでいるのと、まばらに草の生えている空地だったのだと思う。いやに空が広く、空気は乾ききっていて始終喉が渇く。生活の基盤を提供する店——銀行の支店とかコンビニとかサンドイッチデリとか——は殆ど見当たらない。あたりまえだ、ここには生活がないのだから。

Stripを歩いている人のほぼ全員が、手ぶらかハンドバッグしか持っていないかブランドのロゴが大きく入った紙袋を提げているかのいずれかだ。不恰好に膨らんだリュックサックを背負った学生もスーパーの袋を両手に持ったおばあさんもいない。革の手提げかばんに書類を詰めたビジネスマンも、アディダスのナップザックに着替えを詰めたジム帰りの若い男もいない。だから行き交う人の生業を外見から判断するのが難しい。Tシャツ、短パン、サングラスを身につけた白人男性(そんな人と毎分二十人くらいすれ違うのだが)は自動車修理工かもしれないし大学教授かもしれないし農場経営者かもしれない。ベガスの通行人は皆、社会が要請するコードからの束の間の解放を楽しんでいるように見える。ブラックジャックで大金を稼ごうとするMITの学生を描いた映画『21』(邦題『ラスベガスをぶっつぶせ』)では、登場人物の一人がこう言う:

In Vegas, you can become anyone you want.


この街ではお金が他所とは違う顔をしている。すぐそこにあるようで決して手の届かないところにある。自分のものであるようで自分のものでない。妖しく膨れ上がり歪んだのちにふいと消えてしまう。種々の財やサービスの交換を円滑にするという役割は隅に追いやられ、旅行者は一つのものだけをお金の対価として受け取る。
外界での役回りを打ち捨てることで我々は無名の個体になる。この街に我々を惹きつけるのは我々自身が作り出した虚像であり、それを実際に手に入れて帰る者はいない。この街には何もない。我々はそれを承知で嬉々としてお金のうねりに身を任せ、イメージの世界でいっときの快楽を得る。

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