水村美苗はアメリカ人にどう受け止められたか

(話の経緯は下の記事を参照)

大変遅くなりましたが、そんなわけで行ってきました。参加者は俺を含めて7名。結論から言うと、Fletcherの学生はみんなリベラルだし英語以外必ず一つは話すし全然問題なかった。すごい楽しんでもらえたようでした。それにこっちもすごく楽しかった。以下、面白かったポイントをふたつだけ。

■水村は今後現地語で書く人が減るかもしれないと言ってるけどそれは出版から得られる収入面の勘定を指摘しているのか?(これを含め、経済的な含意に注目したコメント多し。)

→こちらの答えとしては、水村の主張はもっとマクロな、文学全体の活動の維持という点に注目していて、ある作家個人が売れるかどうかとはまた別の話、という感じだったように記憶している。

■植民地文学の発達においては現地の人間ががもともと彼らのものではなかった言語をマスターして文学作品を作りそれで植民者を負かすところにモチベーションがあったわけだけど、水村の主張がそういう方向に行かないのが面白い。

→その場ではなるほどなーと思っているうちに話がそれていって大した答えをしなかったのですが、今考えるに植民地文学が置かれた状況と現代の英語の圧倒的地位の違いは、流通の強制度合いの強さにあるんだと思います。われわれの政府は今日も日本語でせっせと仕事をするわけで、社会全体の基盤言語がそっくり置き換えられたわけではない。ただ世界規模の流通に関して英語が圧倒的に有利なので個人的にそっちに移る人が出てきてもおかしくない、という話です。それに、水村がとっている文体の完全な翻訳は不可能であるという立場をとるなら、そもそも日本語で書かなくては仕方がない。



試験中でまじ忙しかったですが、やってよかったです。何かしら面白いストーリーを持ってる人間だと認識してもらえると一気に会話がしやすくなります。

次は、先週出てたスイスのシンポジウムの話と、専門分野の変更について書こうと思います。