study group, intern, differenciation and survival

9月9日

Politics of Korean Peninsulaの初回の授業。教授、TA、学生4人中2人が韓国人、一人が韓国系アメリカ人。つまり俺以外全員が韓国語を母国語とするかそれ相当に解する。なのに授業の言語は英語。いったいここはどこなんだ。なんかFletcherらしくないまったりした授業。

Study groupというものなしにはFletcherの学生生活は語れません。Study groupとは膨大な量のリーディングを皆で分担して読み、授業の前日とかに集まって内容を報告し議論するというものです。

僕は今のところ二つのStudy groupを作っています。Role of Forceという尋常でないリーディングが課されるクラスは、アメリカ人5人プラス僕というこれまたFletcherらしくない構成になりました。ひとり議論で追いていかれてます。なんとかせねば。


9月10日

あ、そういえばもうひとつのstudy groupもアメリカ人二人と俺だ。Rise of Chinaです。こっちは量は普通で、毎週160から170ページくらいです。Study groupもすごく軽い感じで、一人一本論文を報告して20分くらいで終わりました。

昨日今日と2年生のインターンの報告会に行ってきました。昨日は"Spending a summer in a political hotspot"というタイトルで、アゼルバイジャンパレスチナのwest bank、アフガニスタン、コロンビア、モンゴルなど紛争地や暴動が起こった地域でインターンしてた人の話を聞くというものでした。安全面で何に気をつけたのかとか、現地の事情はメディアでちゃんとカバーされていたかどうかとか。

今日のはプライベートセクターでインターンした人の話で、石油メジャーとかネット企業とか投資銀行とか、いっけんFletcherの人があまりいなそうな分野に行った人たちが7人くらい来てのパネルディスカッションでした。そんなインターンありかよ!みたいな話がいっぱい聞けて面白かったのですが、これまで感じてきた違和感をさらに強めることになったのは間違いありません。

つまり、ある程度は予測していたのですが、「来るの早すぎたなあ...」と思わされることがしばしばあるのです。授業にせよ、インターンにせよ、TA/RAにせよ、基本的には何らかの形で一度社会に出てる人が対象なので、ややqualifyしないなあと思うのです。これは単に働いた経験があればいいというものではなくて、純粋にスキルベースの話です。

自分がほかの学生と何を差別化できているかといって、日本語を話すこと以外に大したものはありません。数字もいじれないし、弁護士でもないし、兵役も行ってないし。学歴とか漠然としたイメージはここでは何の意味も持ちません。何をやってきたのか。何ができるのか。そういう具体的にメリットの伝わるものを持っていないと。

確かに日本語はひとつのアドバンテージになり得ますが、ノンネイティブで日本語を話す人にもう5人くらい会いました。日本人だって大勢いるし、それだけでは到底差別化要因になりません。

どっかでスガシカオがこんなことを言ってました。


「何をしたいのかわからないという人には、僕はとりあえず金を貯めろと言うことにしています」


これ、けっこう正しいと思うし、耳が痛いです。何をしたいのかわからないから大学院に行くというのは日本でたまにあるケースかと思いますし自分もその例に入ると思いますが、大学に閉じこもっていて何かが見つかると思ったら大間違いなんじゃないでしょうか。

僕が言ってもなんの説得力もありませんが、何がやりたいのかわからないなら、とりあえず自分にとって最悪の選択肢を避けた上で働いてみるべきだと思う。もちろん日本の長期雇用的なシステムを考えると最初の2、3年で差別化できるほどの経験が得られる可能性は高くありませんが、それなら動きやすい場所を選べばいい。本当にあなたがやりたいことベースで人生を構築する意思があるのなら、世間的評価なんて無視できると思う。

そういう意味で僕がすごく羨ましいなと思うのはアメリカのPeace Corpsです。海外青年協力隊に近いけど、2年間国から給料をもらって途上国の僻地に飛ばされるやつ。Peace Corpsあがりの同級生はいっぱいいます。アラビア語しゃべれるようになって帰ってきてる人が多い印象です。

なんかとりとめのない文章になってきましたがもう少しだけ。おそらくFletcherみたいな学校の選考プロセスは、個人のデータでランク分けした上で、地理的衡平性を大いに重視していると思います。だから全体で倍率が4倍だとしても、例えばアメリカ人の競争はもっと激しいでしょう。

要するに言いたいのは、自分は日本人だからここに来れたけれども、ここを出たあとの選択肢を確保するにはそれ以外の具体的な何かが必要だろうということです。