モロッコで少年を騙す

このブログの一番最初の記事である”Cheating a boy in Morocco”(http://d.hatena.ne.jp/jjsmith/20070106)の日本語版。



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「モロッコで少年を騙す」





バックパッカーの常として僕は旅行中いつも誰かに騙されることを警戒していた。法外な金額を吹っかけられたり質の低い品物をつかまされたりしないように。過去にひどいめにあったことがあるわけではない。ただそういう性格だっただけだ。

イギリス留学中に行ったモロッコ旅行の間も騙されたと感じたことは一度もなかった。僕を騙そうとした人もたぶん一人もいなかったと思う。実のところ、騙したのは僕のほうだった。

旅行中に一人の少年に会った。名前は知らない。鄙びた町の路上だった。町の中心を貫く大通りの真ん中に立って一方の端からもう一方の端まで見通せるくらいの小さな町だった。町に繁栄をもたらしうる産業は何一つないように見えた。大通りには住民に最低限の生活を保障するだけの店が並んでいた。肉屋、薬局、喫茶店。食堂、電話カード屋。真と僕がその町に降りたのはマラケシュからエッサウラに向かう途中でバスが10分間の休憩に止まったからだった。

僕は何日か前から風邪を引いていた。熱があって、短時間で奇妙に上がったり下がったりした。37度だった熱がすぐに38度5分に上がって37度5分に戻ったりした。咳もひどかった。寒いのか暑いのかよくわからなかった。僕は鼻水をたらしていたが、日差しが強くてコートもマフラーもとりはらってしまいたかった。空気が乾いていて半時間ごとにのどが渇いた。唇は古びた壁紙のようにひび割れ始めていた。

その少年は大通りをうろうろしている靴磨きの一人だった。マラケシュとエッサウラを往復するバスが停まるのを待ち、休憩に降りてきた乗客に靴磨きをさせてくれと頼みこむのだった。料金は知らない。ひょっとしたら相場などというものは無い、客の気前しだいの商売なのかも知れなかった。そういう少年が10人くらい大通りに立っていてバスが一台停まるたびにそのうちのほんの二、三人が客をつかまえられるのだった。

最初に彼が話しかけてきたとき僕は彼の顔を見もしなかった。僕はあいまいに首を振り、「Non merci」とつぶやいて背を向けた。じっさい靴磨きなど必要なかった。僕が履いていたのは一週間前に買った白いコンバースだった。僕はオレンジジュースを売っている屋台の前で立ち止まり、一杯買うべきかどうか迷っていた。

二回目に少年が話しかけてきたとき、僕は彼が靴磨きをすると言っているのではないことに気がついた。彼は左手に持った鈍い金色のコインを僕に差し出していた。

Change,と彼は言った。僕はなんのことかわからなかった。フランス語は三ヶ月前に習い始めたばかりで自己紹介と食事の注文が精一杯だった。

Change,と彼は繰り返した。

「両替してほしいみたいだよ」と真が近づいてきて言った。「これ、ポンドだよね?」

そうか。チェンジ。

少年の金貨がイギリスのポンドだとわかるまで少し時間がかかった。モロッコについてからポンドを見ていなかったし、その金貨の図柄は僕が覚えていたのと少し違っていた。でも裏側には見慣れたエリザベス女王の横顔があった。それは確かに一ポンド金貨だった。

「両替してあげたら?」と真が金貨を眺める僕に言った。

「This is Britich pound, yeah?(これ、ポンドだろ?)」と僕は少年に言った。彼は英語がわからないようだった。代わりに、もう一度繰り返した。Change. Please.

「How much do you want for this?(いくら欲しい?)」と僕は言った。彼はわからない、という顔をして口を少し開けて僕を見た。僕はフランス語を試した。

「Ce combien?(これいくら?)」

"Huh?"

「Combien?(いくら?)」

”Dix(十)."

ほとんど反射的に僕はレート換算をしようとした。ポンドとモロッコディルハムのレート。僕は日本円経由で計算しようとしたが、頭が働かなかった。5秒であきらめて、言った。

「No, I can't do that(だめだ)」

僕は少年から離れて歩き出したが、彼は後ろから声を張り上げた。

「Cinq! Cinq!(五!五!)」

七か、悪くないかもな、と僕は考えた。五と七を取り違えるほど僕の頭はぼうっとしていた。しかし僕は振り返らず停車中のバスの周りの人たちをぼんやりと眺めた。誰かが祝祭用の羊をバスのトランクに押しこもうとしていた。他の数人がその周りで煙草を吸いアラビア語で会話をかわしていた。年取った白人の観光客の男が靴磨きをせがむ別の少年を見下ろして首を振っていた。

飲み物、と僕は思った。僕はカフェの前に出ている屋台に近づき売り子の若い男に聞いた。「Ce boutille combien?(このボトルいくら?)」

"Six Dilham(6ディルハム)."

僕は20ディルハム札をポケットから取り出し彼に渡し、釣銭とオレンジジュースのボトルを受け取った。

Change!とさっきの少年が遠くから叫んで駆け寄ってきた。他の靴磨きの少年が二人ついてきた。

僕はつぶやいた。

「1ディルハムが10円で、
1ポンドは230円で、
10ディルハムで1ポンドだと、」

素晴らしいディールだ。素晴らしすぎるくらいだ。

僕はもう一度少年の手から金貨をとり、エリザベス女王の肖像の下に彫りこまれた文字を読んだ。

ONE POUND

僕は一ポンド金貨を彼の手のひらに戻し、ジュースの釣銭をポケットから取り出した。一、二、三、四、五。僕は五枚の一ディルハム銀貨を少年の手のひらに載せ、代わりにポンドを取った。

「Alright?(これでいいだろ?)」

”Merci,”と少年は言って振り向き、どこかへ走っていった。








お前、騙しただろ。バスが休憩を終えて出発し町を離れてから僕は頭の中で反芻した。お前はディルハムとポンドの換算レートを知らなかった少年を騙したんだ。もしかしたら少年はあれがどこの国のコインなのかすら知らなかったかもしれない。おそらく彼は以前英国人の客を捕まえディルハムの持ち合わせが無かったその人物から代金をポンドで受け取ったのだろう。通常のレートでは一ポンドは十六から十七ディルハムに相当する。

正直に言えば、最初に少年が両替を持ちかけてきたとき僕の頭に浮かんだのはコインが偽物かもしれないということだった。考えてみればばかげた話だ、誰がモロッコの田舎町でたった一枚の偽造ポンドを使って観光客を騙すだろうか?本当のレートも知らずに?しかし、ともかく僕が最初に断ったとき考えていたのはそういうことだった。

あの少年はいつかポンドとディルハムの本当の換算レートを知るだろうか。そして彼の一ポンド金貨に対して五ディルハムしか渡さなかった黒髪で黄色い肌をした若い観光客を思い出すだろうか。

そんな日はおそらく来ないだろう。一ポンド金貨を代金に渡す観光客は多くないし彼もすぐに僕のことを忘れてしまうだろう。彼が次に一ポンド金貨を見たとき自分が昔それを持っていたことなど思い出さないだろう。

僕は少年の顔を覚えていない。目立った特徴の無い普通のモロッコ人の少年だった。でも僕はモロッコの名も知らぬ小さな町で少年を騙したことは忘れないと思う。